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Nothing on my mind

なんだかごちゃごちゃ話したくなったことを

『自生の夢』/飛浩隆

 

自生の夢

自生の夢

 

 

 

 

寡作なSF作家・飛浩隆の、久しぶりの新作。デビューから35年間でたったの4冊しか本が出ておらず、その4冊目がこちらの『自生の夢』である。飛浩隆の作品がもう本当にどうしようもなく好きで、年末年始も既刊をしつこく読み返していたのだが、新作がでていたなんてさっぱり知らなかった。
居酒屋で友人と本の話になったときに、飛浩隆の作品を薦めようと思って検索した折りにそのことに気づき、酔いも手伝ってそれはもうひどい喜びようだったと思う。友人にもその場で『グラン・ヴァカンス』と『象られた力』を注文させた。

さて、この『自生の夢』。相変わらず端正な文章と、残酷なのに美しい飛浩隆世界が展開されていて、本当に読んでいて嬉しかった。「残酷で美しい」、自分でも陳腐な表現しかできなくてガックリしてしまうが、そういったものによくありがちな耽美趣味には陥らず、冴え冴えと透明で、すべての描写にきんと冷えわたった輪郭がある。
飛浩隆の作品には、残酷で美しい「破壊」と「崩壊」が欠かせない。登場人物が愛して慈しんできたものが、超常的な力によって、凄惨な終焉を迎えていく。だが、その圧倒的な破壊の裡に、欲望が隠されている。その隠された自らの欲望に気づいてしまうという官能がある。
雑な言い方をしてしまうと、死んじゃうくらい最悪なのに死んでもいいくらい気持ちいい、だってこれは、他の誰でもない私が心の奥底で求めてきた地獄だということに気づいてしまったから、ということ。これをとんでもない透明度で描写するから、読んでいていつも目眩がしてしまう。


言葉ではないものを言葉に変換するとき、時に書き手は何かをイメージの依り代にして形を織り上げてゆくのだろうが、飛浩隆の場合、それはきっとクラシック音楽なんだろうな。飛浩隆が描く地獄には、いつも音楽が鳴り響いているから。
何度も繰り返し読んでしまうのは、わたしの身体の中にもまたその音楽が響いてほしいと願ってしまうから。
美しさにやられる。


短編を読んであれこれ考えたことについても少し。


【海の指】
今回の短編集の中では表題作よりもこちらの方が抜群に好きだ。何年も待って開いた新刊の一篇目がこれだったらどう思う?わたしはブッ飛んだよ。SF的設定とつつましい日常生活が近い距離に置かれた作品はどうしたって魅力的だ。


特に言及はないけれど、「灰洋」に人も過去も暮らしも飲み込まれてしまった街、という設定はあの津波を勝手に思い出さずにはいられない。わたしは被災していないし、親しい人を失ったりもしていない。気安く想像などできるものではないことは百も承知だけれど、人々とその生活を飲み込んだ海という存在は、憎しみとねじくれた願いの象徴として、今も残された人とともにあるのではないかと考えてしまう。

海の中には、まだ「あの瞬間」以前のなにもかもが、失われずに残っているんじゃないだろうか。
飲み込まれてしまった過去が、囚われたままになっているんじゃないだろうか。
前触れもなく奪い去られたものが、また前触れもなく還ってくることだって、あるんじゃないだろうか。
たとえ、大切な人の不在に慣れ始めてしまっていても。たとえ、大切な人の亡骸を、その目で見たのだとしても。

悲しみとやるせない怒りの対象である海(灰洋)は、それでも自分の大切なものを溶かしたまま、今日も目前に横たわっているのだ。
畏怖しながら、憎みながら、その一方で親しみ、慈しまずにはいられない。
なんて切ない。


【自生の夢】

本だけでなく、雑誌や漫画や映画も好きだ。だけど、どうしても本しか受け付けない時がある。
本は、「文字」だけというシンプルな出力を行うメディアである。読む速度を指定してこないし、自分の好きなタイミングで読んだりやめたりできる。「文字」からどんなイメージをするかは、各個人に完全に委ねられている。

文字に込められた豊かなイメージを、誰にも邪魔されない、自分の頭の中という密室でゆっくりと立体化していくこと。
これまでの人生の中で他の様々なメディアと感覚器から入力されてきた情報が、その肉付けの材料になるだろう。
自分の頭の中を参照し、検索し、引用し、全く新しいイメージを生み出し、また自分の記憶領域に書き出していく作業。ストレージに変化が生じるたび、書き出されるものも絶えず変遷していく。
そういうある種の秘匿性が好きなのかもしれない。
伊藤計劃『ハーモニー』の中でミァハも言っていた通り、まさに「本は孤独の持久力が高い」のだ。


ありとあらゆる読み物は、「文字」という汎用規格で人の心に入力される。生きている間に絶えず入力され続ける文字情報は、すでにストレージに降り積もっている同規格の文字情報と簡単に混ざり合うことができる。土産屋で並ぶスノードームの中をゆったりと漂っている雪の粒を想像した。

もちろん絵や写真のイメージも心の中で複雑にくっついたり離れたり混ざり合ったりするが、あらかじめ固定されているイメージの強度が大きいので、文字ほど耕起の広さと深度がないのかもしれないな、と思ったりした。
(あくまでこれは自分の中での話で、絵や写真や記号が汎用規格の人もいるだろう)

本作に登場するCassyは、個人に付属する自動書記のようなもので、主人の感覚器官からの情報に併せて、「書き物」の広大な共有空間であるGEBに蓄積された文章を常に検索・参照しながらその場にふさわしい文章を書き出していく。本来なら個人のストレージ内だけで行われることが、全人類・全言語の書き物の中で無限に実行されるわけである。一度出版されたが最後、誰にも開かれぬまま一生を書架の隅で終えるということがなくなり、どんな文章も全てがCassyの検索対象となって「定期的に電気を浴びる」機会に恵まれる。
これまで自分のちっぽけな脳みその中だけで再生産されていた表現たちは、CassyとGEBの力によって、より深くて豊かな材料で肉付けされてゆく。そしてそれは決して借り物の言葉などではなく、きちんと自分の言葉で出力され、またGEBに共有されてゆくのだ。
そこには文字の孤独はない。それはそれで寂しい気もするが、全人類の書き物が集うストレージを泳ぐという体験は、さぞ気持ちがいいだろうな。


以下、本筋とはほぼ関係のない自分語りである。

人生は一瞬の連続で、心に去来する感情は水物だ。

小学生のとき、ふと思い立って、いつもと異なるルートで学校に向かったことがある。
友達も歩いていない、私を知っている近所の人にも出会わない、その体験は私に新鮮な気持ちを与え、なんとなく浮き足立たせた。でも、私がこの日この時間にこの道を通ったということを、私以外の誰も知らない。この感情を私以外とどめることができない。興味が移りやすく忘れっぽいことを自覚していた私は、とても焦った。家に帰って母に話したいと思ったが、それを夕方まで覚えていられるだろうか。なんとかして覚えていられないものか、と。

その後、今この年齢になるまで、たびたび同じような場面に出くわしてきた。

嫌な夢を見て起きたけれどすぐに内容を忘れてしまったこと、昔読んだ本の分からなかった部分を急に理解した瞬間があったこと、人の話し方になぜだかとても嫌な気持ちになって、理由を考え込んでしまったこと、ふと見た時計の時刻がぞろ目でなんだかうれしかったこと……そういう、本人以外の誰も関知できないような些細な出来事や感情を余すことなく文章にしていったら、人間の一生は一体どれくらいの厚さの本になるのだろうと、小さな頃から折に触れて夢想し続けている。
恐ろしいことに、人間は片っ端から忘れていってしまうから。どんなに大事なことだとしても。子供のころに熱っぽく憧れ続けた将来の夢でさえいつか忘れてしまうのだから、日常の些事などなおさらだ。

本作で登場するCassyはまさにそれを実現するツールなわけである。私の夢想への回答に、こんな風に出会うなんて思いもよらなかった。
出力先が紙の本じゃなくて、共有化されたデータの海なところが現代的だけれど。




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本を読んだあと、本の内容だけではなくて、そこを起点とした自分語りができる作品は、自分にとって気に入る作品であることが多い。
書評ではないので他人からしたらなんの価値もない文章を書き散らすことになるわけだが、わたしとしてはとても楽しいのだった。
わたしにはCassyがないからね。なるべく書き留めておかないと、片っ端から忘れてしまう。

いい読書体験だった。

『食器と食パンとペン 私の好きな短歌』安福望

 

近現代詩と短歌が好きだ。

仕事帰り、最寄りの駅ビルの本屋に寄って、詩歌の棚でぱらぱらとあてもなく出会いを求めるのが好きだ。ナントカ派とかどこの短歌結社だとかそういうことは分からないので、拙い直感が頼りになる。
(ただでさえ詩歌の棚はささやかなスペースしか与えられないものなので、小中規模の駅ビル本屋ともなるとなおさらである。よっていつも収穫は少ないが、それでいい。)
 
今日は仕事でもやもやすることのあった日だったので、なんとなく足が向いた。気になっていた歌集をぱらぱらと眺める。詩歌の棚がある通りはたいていいつも人気がない。そういうところも実によろしいと思う。
 
なので、隣に立った女性二人組から突然声をかけられたのには仰天した。「すみません、普段からこういう本を読まれますか?」。聞けば、友人に贈り物をしたいからおすすめがあれば教えてほしい、とのことだった。とても素敵な話だ、だけど本に没頭してノーガードだったわたしは、悲しいぐらいにうろたえてしまった。
 
詩のおすすめって恥ずかしくないか。難しくないか。詩っていうのは小説やエッセイと違って、なんというか、ものすごくパーソナルな部分に照らし合わせて好き嫌いの判断をするものな気がする。読んだときの境遇や気分によっても響き方が全く違う。
もっと言うと、見ず知らずの人から好きな詩について聞かれるということは、見ず知らずの人から幼少期の一番大切な思い出について語れと言われるような、お前の人生観や恋愛観について熱を込めて語れと言われるような、そんな気恥ずかしさと躊躇いがある。どうしよう、なんて答えれば。
(言うまでもないが、その女性は1ミリだってそんな面倒なことは考えていないに決まっているのに。)
 
「そういうものは個人の好みなのでなんとも…」と濁して逃げようとしたが、その女性二人組はわたしから情報を引き出す姿勢を解いてくれなかった。どうしよう、どうしよう、もうパニックである。絞り出すように「そのご友人は女性ですか」と尋ねて、「それならこれとかかわいくていいんじゃないでしょうか」と直前に見ていた本を手渡す。本心はどう思っていたかは知らないが、その女性たちの好感触そうな反応を見て、わたしはさよならも言わずに猛スピードでその場を去ってしまった。完全に挙動不審だ。
 
エスカレーターを降りながら、わたしは惨めで悲しい気持ちだった。とても感じのいい女性たちだった。友人に詩の本を贈るなんて素敵だ。せっかく声をかけてくれたのだから、詩歌が好きだと思うのなら、わたしのできる限りの協力をすべきだった。それなのに、いかにも話しかけられて迷惑そうな(そう思われても仕方がないような)態度を取ってしまった。パニックになってぐるぐると頭を巡ったつまらないことを全て取り除いてしまえば、大好きなものについて聞かれて、単純に嬉しかったのに。
 
咄嗟のできごとに対して、適切に感情を表したり行動したりすること。わたしはどうしてたったこれだけのことができないんだろう。見ず知らずの人の何気ない問いかけに対してさえ、恥ずかしいとか、自分のおすすめがお気に召さなかったらどうしようとか、そうしたらなんとなく傷ついちゃうなとか、真っ先につまらないことを考えてしまうのだ。わたしのおすすめを聞いてくれたのだから、笑顔で素直に答えればいいだけなのに。大人になるにつれて人と付き合うのもそれなりにうまくなったと思っていたのに、こんな小さな出来事でみっともなくメッキが剥がれ、思春期の頃の醜い不器用さが露呈するようで辛かった。辛くて辛くて、涙の一粒も落ちたかもしれない。
夕飯に無駄に凝って気を紛らすしか手立てはなかった。
 
 
あのときの女性たちへ。贈り物を選ぶという素敵な折に、声をかけてもらえて嬉しかったです。気の利いたことが言えなくてすみませんでした。
苦し紛れに「これがいいんじゃないでしょうか」、と手渡した本は本当にいいと思っています。
あなたがたが気に入ったかは分かりませんが、わたしも後日、改めて手に入れようと思います。
 

 

食器と食パンとペン 私の好きな短歌

食器と食パンとペン 私の好きな短歌